マツケンの記録部屋

教育に関して。

学びの「多様化」を考える②

今回は「多様法」に関連して、学びの「多様化」について考えてみる。

まず、多様法に対して、2つの視点から考察。

フリースクールの代替性と補完性
多様法によって、フリースクール等の学校教育法第一条校以外の学びの場での、教育の機会が拡がっていくだろうと考えられる。
ここで考えられる懸念の1つは、これまでのフリースクールの在り方をどう改善していくか。
語弊のないように補足すると、(詳細は省くが…)フリースクールと言っても、その定義自体曖昧になっており、(卒業論文フリースクールの実態を調査したのだが、その結果で言うと)学校公教育に対するアンチ的側面を少なからず持った、代替性・補完性が特徴的なフリースクールも多々存在している。ただ、これまでも公的助成を受けているフリースクールも存在はしており、つまり、フリースクールが全体的に、これまで公的な認可を受けたものではなかったというシステム的な面に課題があったと考える。
故に、これまでのフリースクールの在り方そのものを問わず、公的に認可することだけでは、公教育への代替性・補完性という側面が無くなることはないだろう。公教育との対立構造は避けたい。全ての子ども達にとってのより良さを求めてスタートした多様法の意義を見失うことになりかねないからだ。

⑵インクルーシブという考え方
多様法では当初、「国連子どもの権利条約に則って」が目的条項に入っており、文言としても「年齢または国籍等に関わることなく」とされていた。つまり「全ての子ども」を対象に考えられた法律である。しかし一方で、インクルーシブ教育の原則は明確に位置づけられてはいない…。
(http://matsuken1991.hatenablog.com/entry/2017/05/29/153059)
全ての子どもを対象にということであれば、学校教育法第一条校の教育の場における、教育の多様性や多様化も考える必要があるのではないだろうか。(これに関しては多様法でも規定はされているよう…参照:多様法 第三条の一・第八条)
一条校の在り方を問わず、それ以外の教育の機会のみに焦点を当ててしまえば、単に選択肢が増えることだけを保証することになってしまう。つまり、理由はともあれ第一条校に行けない子ども達が、それ以外の、つまりフリースクール等でしか学ぶことができないから、少なくともそれを保証します、に留まってしまう。そもそもこれでは、選択の自由なき選択肢が増えるに過ぎない。共同性、個々の違いの尊重、民主主義…これら公教育の基盤も欠如してしまい、本末転倒な結果になりかねない。

これらから、学びの多様化の在り方をこれから考えていく上で、そもそも「多様化」とはどうあれば良いと言い得るのかを考えなければならない。原理として出せた時に、方法も見えてくる。

結論から言うと、
「自由と自由の相互承認が保証されている時にこそ、多様化は良いと言い得る。」

一条校フリースクール、その他多様な選択肢として存在する学びの場と、その選択そのものに、自由と自由の相互承認が保証されていなければならないと考える。

 

多様法つまり「義務教育段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」の附則3には以下のようにある。

(略)この法律の施行後三年以内にこの法律の施行の状況について検討を加え、その結果に基づき、教育機会の確保等の在り方の見直しを含め、必要な措置を講ずるものとする。

先に述べた原理に基づいた在り方や方法を考えていくことが望まれる。

 

さらに、ここからは詳述しないが、発達障害の児童生徒たちの視点も考えなければならない。

ここを別枠で考えることは、インクルーシブの考え方からは外れてしまうが…そもそも日本の教育においては、サラマンカ宣言、子どもの権利条約に基づいて始まった特別支援教育とは逆向きに在る現状だ。その専門性等、全てを批判的に捉えている訳では決してないが、今回の論に沿って考えれば、フリースクールにおいては発達障害のみを対象にしている所も少なくない。公教育における、普通学級の中で、特別支援教育は可能だとするスタートに立ち返り、再考する必要性も含めて、学びの多様化に付随した特別支援教育の在り方も検討する必要性もあるだろう。