マツケンの記録部屋

教育に関して。

ユニバーサルデザインな教育について

ユニバーサルデザイン(UD)な教育について、考えていたことを。

まず、ユニバーサルデザインな教育とは何か?
LITALICO発達ナビによると、共生社会やインクルーシブ教育が基盤となり、「障害のある子にとって〈ないと困る〉支援であり、どの子どもにも〈あると便利〉な支援を増やすこと」。
https://h-navi.jp/column/article/35026027

考えたこと①
ユニバーサルデザインな教育の基盤
ここで、ユニバーサルデザインな教育の基盤である共生社会とインクルーシブ教育について考えてみよう。
共生社会・・・
サラマンカ宣言第2条によれば「さまざまな個性を持つ人々が共に生きるとはどういうことかを、学校生活を通して学ぶ」とある。また、リヒテルズ直子さんは、著書『オランダの共生社会』の中で、共生のための教育とは「他の人と共に生きていく意欲と姿勢を持つ人間を育てる教育」としている。
インクルーシブ教育・・・
野口晃菜さんはインクルーシブ教育の定義の1つとして「学習者の一部をいかにして主流の教育に統合していくかではなく教育システム全体をいかにして学習者の多様性に対応するように変容させていくかを模索する方向性である」ことを挙げている。

これらを踏まえた上で…
ユニバーサルな教育の推進校の研究授業を見学に行った時のこと。評議会にて評価されていた実践例は以下のようなものであった。
・授業を円滑に進めるために、気になるあの子の、授業に関係のない(と勝手に捉えられた)発言は取り上げない。
・視覚的に障がいとなりうる掲示物はしない。

共生社会の観点からみると、気になるあの子の発言を取り上げないことは、教師の都合や授業における便宜上行われているもの。果たして子どもたちは、多様な個性を持つ他の人と共に生きることを学ぶことができているのだろうか?
インクルーシブ教育の視点からみると、一斉授業型という旧態依然の在り方を前提として、障がいとなりうるものを捉えていると言える。

オランダの学校を視察した時に印象的だったのは、ヘッドホンをつけ、机の周りを仕切りで囲っている子どもの様子だ。
人それぞれ学びやすさは違う、ということが保証されているだけでなく、その違いを子どもたちも理解し認めている。
多様な個性を持つ人々が共に生きるとはどういうことなのかを学び(=共生社会)、多様な個々のニーズに応じて教育システムを対応させていくもの(=インクルーシブ教育)ではないだろうか。

考えたこと②
〈ないと困る〉と〈あると便利〉
先に挙げたユニバーサルデザインな教育実践の1つである、視覚的に障がいとなりうるため教室前方には掲示物をしない。ユニバーサルデザインな教育と言えばコレ!という程、定型化した実践であるのだが…まず、考えるべき点は学びの在り方だ。一斉授業型を一概に否定するわけではないが(苫野一徳が言うように目的状況的方法選択の必要性から一斉授業型が良い場合もある)、クラス全員の学びやすさを考えれば、当然学びの進度や内容も異なるわけで、日本の特別支援教育においてなされているように、個々のニーズに応じたカリキュラムがあるはず。とすれば、苫野一徳が提供しているように、個別化・協働化・プロジェクト化といったパラダイム自体を模索する必要性もあると感じる。

個別化・協働化・プロジェクト化の実践校の1つとも言える、きのくに子どもの村学園を視察した時のこと。ビー玉を実際に数え、単位毎に分ける活動を通して、数の概念を学んでいる様子がみられた。全員ではなく、その時は2人の子どもが行っていた。100個の箱、10個の箱、その他…というように、単位毎に実際にビー玉を分けることで、(意図してかは分からないが…)視覚的に誰しもが捉えやすい学び方だと感じた。〈ないと困る〉と〈あると便利〉というよりも、体験に基づく分かりやすい学びの在り方。こうした実践こそ、ユニバーサルデザインな教育と言えるのではないだろうか。

まとめ
ユニバーサルデザインな教育って結果論的なもの…?まだ考えが明確ではないけれど…
多様な個性や能力がある子どもたち。もちろん学びの進度や内容、学び方も多様である。そのことを教師も子どもたち同士も、認め、理解し、尊重すること。まずはこれが大事なポイント。それ故、主流や旧態依然の在り方を変容することから生まれるより良さも考えること。こうしたポイントを大事にしていくことで見えてくる、現行制度上可能なスキルの様な方法に固執することへの疑問点。視覚的に障がいとなるものは、社会に出ればたくさんある。教師が良かれと思って提供する分かりやすさや学びやすさといったものは、本当に子どもたちのためになっているのか?まだまだ考えるべき点があるなぁ…。

リヒテルズ直子×苫野一徳 対談より

以前のブログで書いていたもの。1番初めに書いた記事だし…残していたいなと思い…

2015.6.19の記事です。笑


本日(6/19)、西南学院大学西南学院コミュニティーセンターホールにて行われた、リヒテルズ直子さんと苫野一徳先生の対談に苫野ゼミのメンバーと参加。公教育をキーワードに、これからの日本の教育のあり方について考える機会となりました。


個人の記録用でもあるので…対談の中にあった既習の内容については前半に箇条書きでキーワードのみを示し、後半に今回のポイント(全てポイントなので、初見のものに関しては最後に参考文献になるだろうと思ったものを載せておくので、良ければ参考に…)を自分が考えたことを踏まえて書いていきます。

ではまずキーワードから。(あくまで概要を示す程度のキーワードなのでご了承を。)
・『自由』『自由の相互承認の感度』
・どうあれば自分らしくあれるか
・ウェルビング
・自己との関係、他者との関係、世界との関係
・オープンスクール
・異学年学級(マルチエイジング)
・個別化、協同化、プロジェクト化
・個別化が日本で困難なのは教材が少なすぎる
   から
・子どもにコントローラーを渡す
・大人も学びの姿勢を見せることが大事
・一斉授業は子どもの自発性を奪うシステム
・アクティブラーニング
・心地の良いコミュニティづくりを
・対話のない人間形成はない
・公教育には対話が必要
・対話のできる環境整備を教師は専門性を持っ
   って行うことが必要
・サークル対話
・「公」とは
・弱者を弱者としない
・互いの違いを認める
・公教育にインクルーシブの視点を

次にポイントだと感じた部分を自分が考えたことを踏まえて簡単に。
1.大学のあり方を考える
「序列化のない多様化を」
子どもたちの道筋を広め、将来につながる教育の機会を提供するためにも必要なこと。単に多様化を推し進めるだけでは確かに不足部分があると感じました。やはり、序列化のない、という点は重要だなと。どの選択であっても、子ども達の学びや将来を保証できるものでないといけないと感じます。
2.ビジョンを学ぶことが重要
より良い教育を目指す際に、技術や方法が先に論じられているという問題が挙げられました。そうではなく、ビジョンを学ぶことの方が大切。技術や方法はそれぞれでそれぞれの場や人、環境等々にあったものを考えていくことの方がより良いものになる、という考えにすごく共感しました。
3.ウェルビーイングを育むと学力も伸びる?
ヨーロッパを中心に急速に広まりを見せる中、日本ではどう捉え考えていくのか?これに関しては、これから調べて考えてみたいと思っています。
4.日本の教員養成課程のあり方を考える
先の、ビジョンを学び、その後で技術や方法を学ぶ、という流れはもちろん、一斉型の授業、学生がカリキュラムを自分でつくる経験をしていない等々、これから教師になるだろう学生の学びのスタイル自体を変えないといけないという意見が出されました。すごく共感。あふれる程良いものがあるにも関わらず、それに触れる機会が教員養成課程の中でもほとんどない。例えばイエナプランのような学びのスタイルで学べれば、たのしいだろうな…と思いながら聴いていたところでした。

以上、取り上げた部分は個人的に選んだものでほんの一部ですが、他にも大切なことだらけでした。
それは、子ども達の『自由』を根底においた対談であったから。

できることを少しずつ。ビジョンを広めていくこともそのひとつ。また学びがたのしくなりそうです。

以下ご参考まで。
『オランダの教育』リヒテルズ直子
『祖国よ、安心と幸せの国となれ』リヒテルズ直子
『残業ゼロ授業料ゼロで豊かな国オランダ』リヒテルズ直子
『オランダの共生社会リヒテルズ直子
『オランダの個別教育はなぜ成功したのか』リヒテルズ直子
『いま「開国」の時、ニッポンの教育』リヒテルズ直子、尾木直樹
『勉強するのは何のため?僕らの「答え」のつくり方』苫野一徳
『どのような教育が「よい」教育か』苫野一徳
『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』苫野一徳